— STORY —
GPFの創業ストーリー
F1レーサーを夢見た青年が、ピザ生地の科学にたどり着き、
その同じ手つきで、植物工場メーカーになるまで。
F1レーサーになりたかった。
河内長野の山あい。子どものころから、頭の中はスポーツカーでいっぱいでした。
夢は、F1レーサー。
レースはお金がかかるため、優勝以外は引退と心に決め、夢中で走りました。
でも──結果は3位。
夢を諦めました。
拾われた自動車販売店で、私は4ヶ月でトップ営業に立ちました。
「売る」とは、こういうことか。
はじめて、仕事の手応えを掴んだ瞬間でした。
その後、大好きだったF1のホンダで営業を始めました。
実は当初、就職活動で営業を苦手だと思い、避けていたのですが、そんな逃げている自分が嫌で「営業をやろう!それなら好きなホンダで!」と。
実際のところ入社3ヶ月で社内トップ営業に。
負けず嫌いだったのかもしれません(笑)
しかし30歳の時、所長に抜擢されたのが一つの契機に。
所長になったら自分の良さを生かしたユニークなお店にしたかったのですが、所詮中間管理職にはそんな権限がありませんでした。
自分のしたい事をするには、自分でお金を出してリスクを背負う。そうしてサラリーマンから独立することになりました。
「自分の力で勝負して、自分の証明がしたい。」
そんな生意気な事を考えていた気がします。
そして、私はもう一つ、気づいてしまったのです。
──「自分の力で勝負する」とは、こんなにも面白い。
畳んだ夜の、天井。
30歳で、独立しました。
意気込んで開いたのは、二階建ての立派なイタリアン。
しかし、上手く行かず──5年で畳んで、こじんまりとした所に移転しました。
最初のお店を畳んだ夜。
布団の中で、ぼんやり天井を見つめていました。
その夜のことは、今でも、はっきり覚えています。
──俺は、自分の味で勝負していなかった。
料理を、自分の手では作れませんでした。
厨房は、雇った料理人に任せるしかない。
だから、彼らの機嫌を損ねないよう、いつも気を使っていました。
気づけば、私の目は──お客さまではなく、料理人のほうばかりを向いていたのです。
これでは、店ではない。
そう、はっきり、わかりました。
その悔しさが、私の本当のスタートでした。
翌週から、ピザを自分流に一からやり直す事にしました。
自分が良いと思う物を出したい。
この時から、ガレリアの無添加・一流の素材を使ったお料理、そして後述する「はるゆたか」へと繋がっていきます。
はるゆたかを、追いかけた。
美味しいピザの正体は、生地にあります。
そこに気づいてから、試した小麦粉は、20種を超えました。
アメリカ産。
カナダ産。
本場・イタリア産。
どれも、しっくり来ない。
違和感の正体に、ある日、気づいてしまったのです。
ポストハーベスト農薬。
収穫後の小麦は、船で日本まで運ばれてきます。その間、虫やカビがつかないように、殺虫剤・防カビ剤がかけられる。
私が、お客さまに出していたピザの生地は──そうやって、守られたものでした。
許せませんでした。
「自分の家族には、食べさせたくない素材で、人さまにお出ししていたのか。」
そこから、国産小麦を本気で探し始めました。
たどり着いたのが、北海道・江別の「はるゆたか」。
幻と呼ばれた小麦です。
収穫量が少なく、栽培が難しい。一般流通には、ほとんど出てこない。
しかし、これしか無い──。
コゲと同居するナポリピッツァの中で、はるゆたかのコゲは甘い。
(ぜひガレリアで、コゲだけを食べてみてください)
私の目指すマルゲリータの、必需品だったのです。
江別の畑へ、何度も足を運びました。
生産者の富永さんと、頭を下げて、直接取引をお願いしました。
そして──ピザ生地が、ようやく理想に近づきました。
これだ。私が出したかったのは、これだったのか、と。
美味しさは、感覚ではなく、科学だった。
はるゆたかに変えただけでは、まだ、答えにならなかったのです。
同じ小麦でも、焼くたびに、味が違う。
──面白くなってきました。
加水率。
発酵時間。
塩分量。
生地温度。
こね方。
休ませる時間。
焼成温度。
一つを動かすと、すべてが連鎖する。
ノートを取り、数字を蓄え、毎日、毎日、変数を一つずつ動かして、確かめていきました。
そして、ようやく、わかったのです。
「美味しい」は、感覚ではない。それは、科学だった。
数字で、再現できる。
体系化できる。
同じ条件を整えれば、誰がやっても、同じ味が作れる。
私がピザの生地に15年かけて学んだのは、たった一つでした。
──美味しさは、追究できる。
その一杯のこだわりが、ガレリア富田林1号店の根を作りました。
自分の店で使う野菜は、自分の手で。
生地の答えが出たころ、私の中には、まだ、心残りが一つ残っていました。
野菜です。
市場の野菜では、私の理想の味に、届かない。
来る日も、来る日も、その思いは強くなっていきました。
はるゆたかと同じくらい、野菜にもこだわりたい。
そう思っても──市場の流通では、それは叶わなかった。
「自分の店で使う野菜は、自分の手で作りたい。」
それなら、もう、作るしかありません。
水耕栽培の学会に通い始めました。
独学で、研究を重ねました。
──ピザの生地を追究したときと、まったく同じやり方で。
バジルから始めて、フリルレタス、はるゆたかの苗。そして、店内の個室まるごとを植物工場へ。
段階的に、自分の手で広げていきました。
それが、やがてGPFという形になっていったのです。
光の使い方を、苦節2年。
ご縁から、日亜化学さんより、野菜生産用の特殊LED素子を入手する事ができました。
ですが──その光を、どの様に使えば野菜が美味しくなるのか。
理論的には素晴らしいスペクトルを持っていても、その使い方を、誰も教えてはくれませんでした。
ピザ生地で経験した、あの状況と、まったく同じだったのです。
加水率の代わりに、光の波長、照射時間。
発酵時間の代わりに、株とLEDの距離。
塩分量の代わりに、溶液のpH、濃度、組成。
変数の名前が違うだけで、向き合い方は、寸分も変わりませんでした。
品種を変え、距離を変え、時間を変える。
ノートに記録し、また変える。
1年が、過ぎました。
納得できる味の野菜は、育ちませんでした。
2年が、過ぎました。
それでも、育ちませんでした。
諦めかけた、その日のこと。
すべてが、噛み合いました。
「めちゃくちゃ、美味しい。」
私が、心からそう言える野菜が──目の前で、育っていたのです。
料理人に届けると、評判は、一気に変わりました。
「他では、手に入らない。」
その言葉に、ようやく届きました。苦節2年の、その先で。
はるゆたかを追いかけた日々と、まったく同じ景色が、そこにありました。
大手が撤退する中で、なぜ続けてこられたのか。
大手の植物工場が、次々と撤退していきました。
それでも、私たちは続いています。15年です。
理由は、はっきりしています。
大手は、量で勝負しました。
私たちは、味で勝負したのです。
一歩、一歩。
わずか1,000円ほどの取引から、お邪魔しました。
味と販路を、地道に。
積み上げてきた。それだけです。
価格競争には、巻き込まれない領域へ。
高級野菜だけに、振り切りました。
その選択が、植物工場で収益性を実現する道でした。
時計と、カメラと──同じです。
日本に残るのは、高級品をつくる仕事だけ。
私たちは植物工場を、その流れに合わせて、作り直してきたのです。
「ピザの生地を、本気で美味しくしたい」
──そこから始まった一本の物語が、いま、高収益の植物工場というかたちで続いています。
GPFが向かう、4つの未来。
GPFの植物工場が向かっているのは、4つを同時に実現する仕事のかたちです。
野菜は、土の汚染も農薬の影響も受けない。
年中、安定して育つ。
電気を再生可能エネルギーに切り替えれば、
地域の自給自足にも貢献できる。
お店で、ご家庭で。
料理人と家族が、「美味しい」と心から言える野菜が、食卓に乗る。
そして、あなた自身の生活も──
無理のないペースで、安定する。
環境。未来。健康。そして、経済的な豊かさ。
この4つを同時に実現できる仕事は、現代では、そう多くありません。
GPFの植物工場が向かっているのは、
その4つを束ねた、ひとつの仕事のかたちです。
ガレリア梅田の店内には、いまも実機が動いています。
お客さまの目の前で、バジルとフリルレタスが、LEDの光を浴びて育っています。
ご相談にいらした方には、その実機をご覧いただきながら、
私の焼くピザを、召し上がっていただくこともできます。
いつか、お会いできる日を、楽しみにしています。
GPF株式会社 代表取締役
池田 浩晃
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